それは、しんどいですよね

正しいことを言われているのに、なぜか、素直に聞けない。――そんなこと、ありませんか。

言っていることは、たいてい、正しい。筋が通っている。反論の隙も、ない。――なのに、聞いていると、なぜか、心が、閉じていく。「それは、こうだよね」「だから、こうすべきだよね」。正しい。正しいんです。でも、その正しさが、まっすぐ、こちらに、突き刺さってくる。

――と、偉そうに書いていますが。

実は、かつての私が、その「正論を言う人」でした。

税理士として、お客様と向き合う中で、私は、よく、正しいことを、言っていました。「それは、こうすべきです」「この数字を見れば、答えは明らかです」。もちろん、悪気なんて、まったくない。むしろ、その人のことを思って、真剣に、正しい道を、示していたつもりでした。

でも、あるとき、気づいたのです。

正論を言うと、相手の顔が、曇るのです。

こちらが、正しいことを、言えば言うほど。相手の表情が、少しずつ、暗くなっていく。うつむいて、口数が、減っていく。――そして、決して、「よし、やるぞ」という顔には、ならない。

その、曇っていく顔を、目の前で見たとき、私は、はっと、しました。

私は、正しいことを、言っている。でも、この人は、少しも、前を向いていない。――だとしたら、私が言っていることは、本当に、正しいのだろうか。

正しい答えを、渡すこと。それが、その人のためだと、思っていました。でも、違ったのです。その人が、「やるぞ」という顔になること。前を向いて、一歩を踏み出せること。それこそが、正解だった。

どれだけ、内容が正しくても。相手の顔が曇って、動けなくなるなら、その正しさは、その人にとって、正解では、ないのです。

そして、人は、自分で、たどり着いた答えでなければ、本当には、動けません。

誰かに「これが正しい」と言われて、その通りにしても、心のどこかが、ざらつく。でも、自分で、悩んで、迷って、遠回りして、そのうえで「これだ」と、自分でつかんだ答えなら――たとえ、それが、傍から見て、遠回りでも、その人は、前を向いて、進める。自分で出した答えには、力が宿るのです。

だから、いま、私は、思っています。

誰かが、大きな決断を前に、悩んでいるとき。しんどい思いをして、自分の答えを、出そうとしているとき。――そこに、正しい答えを、渡すのは、たぶん、違う。

その人は、答えを、知りたいわけではない。自分で、たどり着きたいのです。ただ、その道のりが、あまりに、しんどいだけで。

だとしたら、私にできることは、一つしかありません。

隣に、いること。

答えを、渡すのではなく、その人が、自分で答えにたどり着くまで、そばに、いること。

――こう書くと、「なんだ、ただ、聞いているだけか」と、思われるかもしれません。

でも、これが、案外、難しい。

本当は、答えが、見えていることも、あります。専門家であればなおさら、正しい道を、示したくなる。かつての私のように。――それを、ぐっと、こらえる。渡さずに、待つ。その人が、自分の足で、たどり着くのを、信じて、待つ。

答えを渡すより、待つほうが、ずっと、難しい。

でも、その「待つ」の中にこそ、本当の敬意が、あるのだと思います。「あなたは、自分で、答えを出せる人だ」と、信じること。それは、相手を、一人の、考える人間として、尊重する、ということだから。

だから、私は、正しい答えを、急いで、渡しません。

その人が、自分で、「やるぞ」という顔に、なれるまで。ただ、隣で、こう言い続けるのです。

それは、しんどいですよね。