財務省の地下には、羊がいます

昔話を、少し。

私は、国税の職員だった頃、一時期、財務省に、出向していました。主税局、という部署です。税の、制度そのものを――つまり、税制改正を、設計する部署でした。財務省の中でも、主計局と、並んで、忙しいことで、知られた場所です。

私がいたのは、ちょうど、消費税に、軽減税率が、入った年でした。食品は、持ち帰りなら8パーセント。新聞も、8パーセント。ほかは、10パーセント。――あの、ややこしい仕組みが、生まれた、まさに、その現場に、私は、いたのです。

本当に、忙しかった。

「ホテルオークラ」という、言葉があります。

あの、高級ホテルの話では、ありません。財務省――昔でいう、大蔵省の、地下には、シャワー室と、仮眠のための、小さな施設が、あるのです。カプセルホテルのような。残業が、深夜に及び、家に帰れない夜、私たちは、そこで、シャワーを浴び、少しだけ、眠り、また、翌朝から、働きました。

「今日は、ホテルオークラに、お泊まりだな」。――そんな軽口を、叩き合いながら、私たちは、あの、終わりのない日々を、しのいでいたのです。

さて。ここからが、本題です。

その、財務省の、地下に、大きな書庫が、ありました。蛍光灯で、照らされてはいるのですが、古い書物や、資料が、あまりに、うずたかく、積まれているせいか、どこか、ほの暗い。埃の、匂いのする、広い場所です。私も、よく、資料を取りに、あるいは、いらなくなった書類を、置きに、そこへ、通っていました。

その、書庫で。

――羊を、見たのです。

いや。見た、と、言い切る自信は、ありません。うろ覚えなのです。あの、書物の谷間に、たしかに、羊が、いたような。じっと、こちらを、見ていたような。そんな、おぼろげな記憶が、私の中に、残っているのです。

たぶん、見間違いでしょう。あるいは、疲れ果てた頭が、見せた、幻。連日の、深夜労働。厳しい上司。張り詰めた、空気。――あの頃の私は、たしかに、極限の、ふちに、いました。だから、いもしない羊を、見たのだと思います。ふつうは、そう、考えます。

……もっとも、白状すると、私は、村上春樹の『羊をめぐる冒険』が、昔から、大好きで。どうも、羊という生き物に、弱いのです。星座は、獅子座。干支は、寅。我が身に、羊の要素は、これっぽっちも、ないというのに。――まあ、どちらかというと、私なんかは、羊を、食べちゃうほうなんですけどね。

でも、不思議なもので。

あの、羊のいた日々が、いまの私を、作っている、という気が、するのです。

若い頃の苦労は、買ってでもしろ、と、言います。正直、当時は、そんな言葉、信じていませんでした。ただ、しんどいだけでした。――けれど、今なら、分かる。あの、極限を、くぐったからこそ、たいていの辛いことは、「あれに比べれば」と、思える。あの日々が、私の、いちばん奥にある、静かな自信に、なっている。

羊が、なぜ、羊だったのかは、分かりません。何かの、意味があったのかも、しれないし、ただの、幻だったのかも、しれない。――それでも、私は、こう思うのです。人が、自分の、限界の、いちばん際まで、行ったとき。そこには、たぶん、羊が、いる。

だから、ときどき、思うのです。

皆さんは、最近、羊を、見ましたか。

見たのなら――大丈夫。

そのあとの人生は、きっと、少し、良くなっているはずですから。