プログラミング教室は、何だったのか
少し前に、「プログラミング教室」が、ずいぶん流行った時期がありました。
「これからはプログラミングができないと食べていけない」。そう言われて、大人も子どもも、こぞってPythonだ、なんだと学びに行った。あの熱を、覚えている方も多いと思います。
では、いまどうなっているか。
正直に言えば、その熱は、かなり冷めました。AIが、コードを書いてくれる時代になったからです。私も、Claudeにコーディングを任せています。「もう、自分で書く必要はないのでは」という声すら、聞こえてきます。
すると、こういう疑問が浮かびます。あのとき、プログラミング教室に通った人たちは、いったい何だったのか。無駄だったのか、と。
私は、無駄ではなかったと思っています。
ここで、太宰治の言葉を思い出します。『正義と微笑』という作品の中で、ある先生が、生徒たちにこう語る場面があります。――代数や幾何なんて、卒業すれば役に立たない。そう思うのは大間違いだ。日常に直接役立たない勉強こそ、人格を完成させるのだ、と。大事なのは、覚えることではなく、「カルチベートされる」こと。たとえ全部忘れても、その訓練の底に、「一つかみの砂金」が残る。それが貴いのだ、と。
プログラミングを学んだ人も、同じだと思います。コードそのものは使わなくなっても、筋道を立てて考える力、物事を分解して捉える力――その「砂金」は、ちゃんと残っている。
さて、ここからが本題です。
いま、同じことが、もう一度起きようとしています。「AI教室」です。
これから数年、AIの使い方を教える場が、あちこちで開かれるでしょう。私自身、その一人です。だから、はっきり言えます。世の中に、そういう場は、どんどん増えていく。
そこで、多くの人が学ぶのは、便利な使い方です。業務をどう効率化するか。どう指示すれば、うまく動くか。経営者なら、戦略を練るときの壁打ち相手として。――それは、役に立ちます。間違っていません。
でも、たぶん、数年後には、また同じ問いが来ます。技術はさらに進み、いまの「使い方」は、きっと古くなる。そのとき、誰かがこう言うでしょう。「あのAI教室は、何だったのか」と。
だから、いまのうちに、答えを用意しておきたいのです。
AIを使うことの価値は、業務効率化だけではありません。もっと奥に、あります。
AIと向き合い、対話を重ねるうちに、自分の思考が、深くなっていく。ふと湧いた考えを、AIに投げる。すると、思いもよらない角度から返ってくる。それに答えているうちに、一人では決してたどり着けなかった深さまで、考えが潜っていく。――これを繰り返すうちに、「深く考える」という癖そのものが、身についていく。
便利な使い方は、数年で古くなります。でも、この「深く考える力」は、古くなりません。これこそが、あとに残る「一つかみの砂金」です。
プログラミング教室が、コードではなく「考える力」を残したように。AI教室は、便利な使い方ではなく、「深く考える力」を、私たちに残す。
あれは、単なる道具の使い方を習う場ではなかった。私たちが、もう一段、深くなるための場だったのだ。――そう言える日が、きっと来ると、私は思っています。
太宰治は、あの一節を、こう締めくくりました。
「ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ」

